集団主義とストレス、そして子どもの教育への関係について考える

現代では多くの人が様々なストレスと戦っています。ストレスは全てが悪という訳ではなく、適度なストレスは時には人間を成長させてくれる事もあります。しかし集団から与えられる「個人では処理しきれないストレス」はその人にとって害でしかありません。特に日本では「当たり前とされている事に対し、疑問を持ったり意見を言ったりする」という事を許さない風潮があり、集団に対して疑問を感じた時、個人は大きなストレスを受けます。ここではそんな日本の社会とストレス、そして子どもへの教育の関係について私なりに考えた事をまとめています。ご興味のある方は下記「続きを読む」よりどうぞ。尚、これは他の記事でも同じですが、当記事に書かれている事はあくまで個人の意見です。参考にするかしないかはご自身で判断して下さい。

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★当記事の目次

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「集団を美徳とする考え方」は時に大きなストレスを生む

日本の社会では「個人では処理しきれない大きなストレス」が生まれやすいと思います。その理由の一つとして挙げられるのが、日本人特有の「集団を美徳とする考え方」です。日本人は常にその考え方に基づいて行動を決めており、「自分一人の考えよりも、集団としての考えを常に優先」します。日本人はそれによって「日本人という体裁」を守っており、これは秩序あるいは治安を守る上でも非常に重要な役割を持っています。

しかしその中では「自己主張せずに集団に合わせる」という事が日常的に行われます。仮に「自分の意見の方が合っている」「周りの方が間違っているのではないか?」と一度は思っても、自分の意見が周囲と違う場合、すぐに「周囲の意見を優先する」ような人が多いのです。これは簡単に言うと、「多くの人がこう言ってるんだから、自分もそれが正しいと思う」という事です。しかし全ての人がそうして「周囲に合わせる事ができる能力」を持っている訳ではありません。中には「周囲に合わせて自分の意見を変えられない人」もおり、そういう人は集団から蔑ろにされやすく、周囲から不当な扱いを受ける事も多いです。

特に、集団としての考え方が優先される事では、「多くの人がしている事=それは当たり前の事」という強い固定概念が生まれ、それによって逆に「多くの人がしている当たり前の事をしていない人=おかしい人」というレッテルが貼られやすいです。分かりやすい例で言えば「スマートフォン(スマホ)」が挙げられます。最近の若い人はスマホを持っているのが普通ですが、世の中にはスマホを持っていない人もいます。例えば経済的な理由で持てない人もいれば、パソコンがあればスマホなんていらないという人もいますし、単純に興味がなくて買わない人もいるはずです。しかし集団としての考え方を優先する事では、そうした様々な理由でスマホを持っていない人を「イレギュラーな存在」として扱い、それを集団から徹底的に排除しようとします。その結果、スマホを持っていない人を馬鹿にしたり蔑んだりする・・・なんて事が実は日常的に起こっているのです。

これはスマホに限った事ではありません。「流行しているもの」「世の中にあって当たり前のもの」の全てが該当します。例えば漫画のワンピース、これが好きな人もいれば、逆に嫌いだという人もいますし、ワンピースの漫画は読んでもアニメは全く見ないという人も中にはいます。またサッカーが好きな人がいれば、逆に嫌いな人も当然いますし、実際にサッカーをするなど体を動かすのが好きな人もいれば、中にはただテレビを通して見るのが好きという人もいると思います。

そのように好き嫌いや接し方、利用の仕方は人それぞれ違うはずなのですが、それが「多くの人が利用しているもの」になると、途端に「それをしていない人=異常」というレッテルが貼られてしまうのです。何故そのような事が起こるのかというと、前述したように集団としての体裁を維持するために、「多くの人が利用しているもの」あるいは「多くの人がその存在を認めたもの」だけが存在する環境を作ろうとするからです。その結果、個人が攻撃を受けてしまうという事がある訳です。日本人って何故かやたらと他人の趣味に文句をつけたがりますからね。



「間違った当たり前を押し付ける」という事が起こり得る

集団としての考え方を優先する日本人にとって、前述したような「集団としての考え方から外れる者を排除し、自分らの立場を守ろうとする」のは単なる「善意」です。自分たちの属する集団としての考えが一番正しいと思っているので、「そうする方が良い」と、全て反射的に行動しています。そのためその行動を取る事で、「個人に対してどのような影響があるのか」「その行動は正しいのかどうか」という事は一切考えません。「自分自身や自分の属する集団を疑わない」という事です。

そうして常に集団に身を置き、「疑う」という事ができなくなるとどういう事が起こるか。「日本人は騙されやすい」とよく言われますが、まさにその通りで、情報に右往左往させられ、騙されやすくなります。何故騙されやすくなるのかというと、常に多勢に合わせて行動してきた事で、「自分の意志で善悪を判断するために必要な能力」が衰えてしまったからです。この情報化社会、特にネットは個人が利用する場で、正しい情報も間違っている情報も、どちらも溢れています。その「善悪の判断」を行うのは結局個人なのです。しかしそれすら集団に委ねようとするので、仮に集団としての考え方が間違っていた時でも、その間違った前提にそのまま従い続け、時には被害を拡大させる一員になってしまう事もあります。

これは「日本人」という大きな集団の中で実際に起きている事です。例えば3.11の東日本大震災では数え切れないほどたくさんのデマが流れました。特にSNSサイトのツイッター。ツイッターは個人が文字を投稿する場で、「リツイート」という方法を使う事で、他人の投稿あるいは自分の投稿を、自分の周囲にいる人に見てもらう事ができます。これによって、たった一つの投稿でも、一人がリツイート、そのリツイートを見た他の人がリツイート・・・というようにねずみ式に広がっていくため、時には数千人、あるいは数万人という単位で情報を拡散する事ができます。

一方、悪意を持ち、意図的に嘘を書いて拡散させるという事を考える人もいます。そのため多くの人にリツイートされている投稿でも、その情報が必ずしも正しいとは限りません。前述したようにネットはそもそも個人が利用する場なので、そうした信憑性が不明な事が多い個人の投稿が、果たして正しいのかどうかというのを判断するのはやはり個人なのです。それはネットだろうとテレビだろうと変わりません。しかし震災という非常時だったせいもあり、その情報が正しいかどうかをよく考える前に、「多くの人にリツイートされている=集団としての考えが正しい」と多くの人が信じてしまいました。その結果、意図せずたくさんのデマが拡散されてしまったのです(デマ一つ一つについては省略。興味のある方はこちら→「NAVERまとめ」から)。

これはまさに日本の縮図と言えると思います。日本人は集団に身を委ねる事で自分の意見を持ってきたので、そうしていざ集団から新しい情報が与えられた時、それに対して「疑問」を持つ事ができません。その情報が正しいかどうかを判断せず、反射的に情報を受け入れ、まらそれを周囲に広め同調しようとしてしまうのです。最近では政権批判に関するニュースもそうですね。多くの人がそれに同調していれば、内容を読まずに同調し、一緒になって批判する人が増えているように思います。そもそもメディアの言う「多数意見」が本当に多数かどうか、現代はそこにも目を向けなければならない時代になっています。ネットだろうがテレビだろうが新聞だろうが、情報の受け取り方は変わらないはずです。


「情報に対して疑問を持つ事ができない」という事は、「その情報が正しいかどうかを判断する能力がない」という事です。何故なら「正しい情報を選択するためのフィルター」は「情報に対して疑問を持つ」事でしか鍛える事ができないからです。繰り返しになりますが、集団からいざ新しい情報が与えられた時、その情報が正しいかどうかを判断するのは「個人」です。特に3.11のような緊急事態ではそれが重要でしたが、日本人にはそれができませんでした。情報を得られる媒体が「多くの人が利用していて信頼できる」と思えるものほど、その情報が間違っていた時の被害は大きくなります。その点については改めて強く認識しておくべきだと思います。もう二度とあの時と同じ過ちを起こしてはなりません。

集団を優先すると、そのように仮に「当たり前という前提が間違っていた時」であっても、その「当たり前」を何の悪気もなく「個人」に押し付けてしまう事があります。「集団」による多勢からの意見には常に大きな影響力があり、一個人にとっては「行動を制限する原因」にもなるため、時には非常に大きなストレスになります。実際に3.11ではそれが起きており、我々日本人はそこから多くを学んだはずです。集団で何かをする前にまず一度立ち止まって、一旦自分の頭で考えてから情報に触れ、それから行動に移すべきです。



子どもに対する「大人」という集団の影響力

「集団」には「子どもを持つ親」の殆どが属しており、当然親も「自分が属する集団としての考え方」を優先しています。特にこれは集団に溶け込み、目立たないようにし、自分の子どもを危険から守るためでもあります。このため子どもへの教育にも集団としての考え方が多分に含まれる事になります。しかし前述したようにその前提となる考え方が間違っている場合もあり、その間違った考え方を自分の子どもに押し付けてしまう危険性もあります。また多くの日本人は個人の考えよりも集団としての考えの方が正しいと思っているので、自分が子どもにした教育が、果たして正しいのかどうかという事をあまり考えません。そのため気づいた時には既に「間違いが積み重なった後」という事も多いです。

例えば誰に教わった訳でもないのに、小さい頃から絵を描くのがとても上手な子がいたとします。その子は絵を描く事が大好きで、様々な絵を描く事ができますが、時には骸骨や筋肉の絵など、絵の事をよく知らない我々からすれば非常に個性的な絵を好んでよく描きます。一方、芸術の専門家から見れば、その絵は天賦の才能を感じる素晴らしい絵で、「将来、世界的に名前を知られるほどの画家になるかもしれない」と評されるほどです。

例えば小学校なんかでは同級生と一緒に絵を描く時間があると思います。そのような時、その子の描く絵はとにかく目立ちます。確かに絵は上手いのですが、体の内部の絵なので、苦手な人から見れば非常にグロテスクですし、目を背けたくなるような絵です。当然、それを見つけたその子の親や先生は大きな声で叱りつけたり、同級生の親は止めさせるように学校へ進言するでしょう。何故そのような事をするのかと言えば、それは当然「集団としての体裁を守ろうとする」からです。しかしそれ故に、周囲と異なる考え方や行動をした時、「それをするな」と有無を言わさず止めさせたり、「周りを見ろ」「これをしろ」と、集団としての考え方や行動を「何よりも優先させる(自分を犠牲にしてでも)」ように叱りつけてしまいます。

そのような叱り方は子どもにとっては疑問だらけです。一方的に叱られれば叱られるほど、「何故怒られたの?」「何故これをしなきゃいけないの?」「何故周りと同じ事をしなきゃならないの?」「何故これをしちゃいけないの?」などというたくさんの疑問が湧いてきます。しかしそのような疑問を持ったとしても、大人のように言葉として表現する事はできず、また知識もないので強く混乱してしまいます。

子どもは何か分からない事があり、頭の中が整理できずに混乱してしまった時、自分が一番信頼する人に助けを求めます。それが誰かと言ったら両親です。知識や表現力の乏しい子どもにとって、いつも身近にいる親は最も頼りになる存在です。ですので子どもは最も信頼できる親から「納得できるような説明」をされれば、叱られた意味をしっかり理解し、周囲に合わせた絵を描くようになり、筋肉や骸骨の絵もこっそり描けば良いだけですから、絵を描く楽しさも維持できます。しかしそこで「わがまま言わない」「ダメって言ってるでしょ」「どうして分からないの」というように、子どもの持つ疑問を頭ごなしに否定して叱ってしまうと、「何故絵を描くと怒られるのか」「何故この絵を描いてはいけないのか」が分からないままになります。日本の教育ではそういったアフターフォローが大きく欠けていると思います。

確かに周囲に合わせる事は大切な事です。しかしそれを優先させるだけというのは決して「教育」ではありません。重要なのは、子どものした行動の理由を一緒に考え、子どもの持つ疑問に対して一緒に向き合い、そして上手くその疑問や答えを表現できるようサポートしてあげる事です。それをせず、ただただ厳しく叱り続けると、感性が豊かな子ほど「絵を描く事が楽しくないから、絵を描く以外の新しい事を始めたい。しかし周囲の視線が気になり過ぎて何も始められない」という葛藤に悩まされるようになります。何故なら周りに合わせる事を優先するあまり、周囲の視線を常に伺い、何か行動を起こすという時にまず自分自身を疑うようになるからです。そのため周囲の誰かに意見を求めなければ、今何をすべきかを判断できず、新しい事に億劫になってしまうのです。それは生涯付き纏います。


個性を犠牲にしてまで協調性を優先させるような日本の教育は、そうして子どもの将来の選択肢の幅を狭める事にも繋がります。こういう事を言うと、「その程度で潰れてしまう個性など、元々大した事がなかったんだろう」と言う人もいますが、子どもの個性は大人という集団が想像する以上に貴重なものです。人は皆、複数の個性を持って生まれてきます。成長していく過程で、いくつかの個性は薄まっていき、人の目に触れにくくなります。失われるのではなく、忘れてしまうという感じの方が近いです。一方、いくつかの個性は濃くなり、その内、人の目に触れる形になったものが「才能」と呼ばれます。複数持っている個性の内一つが薄まっても、それは別にある一つの個性を活かせば良いだけと多くの大人は考えます。しかし一度薄めた個性を再び濃くするのは簡単な事ではありません。何故なら子ども時代にしか伸びない個性というものもあるからです。個性というのは濃くなればそれを使って生活をする事もでき、その人の「生き方」にも関わる重要なものです。周囲の大人が「その程度」と勝手に決めつけ、簡単に失わせてはならないものです。

また日本人は「一つの事に集中して極める」という事に固執しすぎです。何故二つ三つの事を同時に極めてはいけないのでしょうか。どれも中途半端になるからでしょうか。しかしそれも勝手な決めつけです。子どもの持つ個性のどれを濃くするかは大人が選ぶものではありません。全て子ども自身が決めるものです。そしてその子どもの決定をサポートしてあげるのが大人です。教育とはそういうものです。



ストレスを与えるか溜め込むかの両極端になっている

周囲の視線を常に伺い、周囲よりも真っ先に自分を疑うという事を続けると、「自分で自分にストレスを与える」「自分の中でストレスになる理由を作る」という根っからのネガティブ思考になります。そのような人は周囲と自分の考え方や行動が異なる度に、一応には疑問を持ちますが、自分ではその疑問を解決する事ができず、表現も上手くできないので、ひたすらに自分を隠して生きていきます。特に真面目で我慢強い(特に小さい頃から厳しい躾をされてきたなど)と言われる人ほどそのような思考になりやすく、一旦そうなると、ストレスが悪循環するように溜まっていきます。日本人は元々ストレスに対する抵抗力が強く、いわゆる「我慢強い」人が多いと言われています。が、それは集団主義が強く、単に個人の意見を主張する術を知らないからです。

成長過程で自分の持つ別の個性に気づき、それを自分で伸ばし、それによってストレスを発散する別の方法を見つける事ができれば良いでしょう。しかしそれを自力だけで行う事ができる人はそう多くありません。それができない人の多くは、ストレスを外へ発散させる方法を知らずに大きくなっていくため、気づいた時には既に相当のストレスを貯めていて、今すぐにでも発散しないと人間として狂ってしまいそうな、そういうレベルにまでなってしまう事もあります。

特にそうして集団から外れていた個人は、一度「集団に属する」という事の良さが分かると、今まで受けてきたストレスをその集団の中で爆発させ、途端に激しい自己主張を行うようになる事があります。例えばSNSサイトなど最近では誰でも簡単に自己主張を行える場があり、実際、その場では強い口調の人をよく見かけます。何故そのように豹変してしまうのかというと、集団には自分と意見を同調する多くの人がいて何も怖いものがなく、自由にストレス発散を行う事ができるからです。ストレスを発散させる方法を知らなかった個人にとって、その集団はこの上なく心地良い場所です。それによっては「ストレスを与える」という事に快感を覚える人もおり、元々個人だった人も集団に強く固執し、結局「集団対集団」という構図になります。しかも新たに属した集団では、自分たちの属する集団から外れる考え方を徹底的に排除しようとします。つまり集団に属する事で、今まで自分が個人として受けていた事と同じ事をするようになるのです。ストレスを与えるか、溜め込むか、その両極端です。

一方、集団に属する事では「壊れていく個人」を目にする機会が増え、「集団に対して個人が逆らっても勝ち目がない」という事を一人ひとりが分かり知らされます。そのため集団の中に身を置きながらも、「個人」になる事を酷く恐れ、「集団に属する」という事にますます固執し、周囲に合わせて常に自分の考え方を変えるようになります。また同じ意見を持つ者同士で同調すると気持ち的にも安心しますから、集団の中にいる事が、とても居心地が良く感じます。そのため周囲に合わせれば「孤独を避ける事ができる」という事にも気づき、その集団の中に居続けるために、自分の個性を隠すようになります。そうして最終的には「自分を隠していた事」すら忘れ、「周囲がそう考えているなら自分もそう思う」というように個人としての意見がなくなります。

そうして集団から外れた個人だった人も、いずれは集団に固執してしまうため、「疑問を持つ」という事ができなくなっていきます。子どもの頃は「何で」「何で」と疑問ばかりだったはずですが、大人になると疑問を持つ事よりもまず周囲に合わせ、自分の足場を安定させる事を優先してしまうのです。もちろん自分の子どもなど「何かを守るため」にそうせざるを得ない場合もありますが、周囲と考えを同じくしていれば、集団の中で孤立する事はまずありませんから、多くの人は「誰かと同調していた方が楽」という理由で集団の中に居続けます。そのような状況では情報に対してどうしても受け身になり、その情報が間違っていた時、対処ができません。それは「ぬるま湯に浸かっているだけ」だと私は思います。



「当たり前」に対して疑問を持つ事

周囲の考える「当たり前」をそのまま受け入れるだけでは何も変わりません。身長を伸ばすという点で言えば、「牛乳を飲めば身長が伸びる」「バレーやバスケをすると身長が伸びる」「よく寝ると身長が伸びる」「運動をすると身長が伸びる」「たくさん食べれば身長が伸びる」などが良い例です。当ブログを読んでいただければ分かる通り、それをただそのまま実行するだけでは身長は伸びません。何故なら情報に対して受け身になっており、「何故」を考えていないからです。そもそもそれを行うだけで身長が伸びたら誰も苦労しません。

また身長では特に「親が小さいから子どもも小さい」「遺伝はどうする事もできない」などと、自分の子どもにその言葉を押し付けてしまう事が多いです。自分がそうだったからと言って子どもがそうであるとは限りません。例え親子であっても別の人間であり、そもそも遺伝子は全てが見た目に現れる訳ではありません。更に、例え優秀な遺伝子を持っていても、それが効率良く働くかどうかは毎日の積み重ねによって大きく左右されます。始める前から諦めてしまっては何も変わりません。

現状を変えたいのなら、「○○を行うと身長が伸びる・伸びない」という言葉をそのまま受け入れるのではなく、「○○を行うと身長が伸びるのは何故か?」「○○を行うと身長が伸びないと言われるのは何故か」と疑問を持つ事が重要です。当ブログだけでなく、新たに与えられる情報に対しては常に疑問を持ち、その「何故」を考えましょう。その積み重ねが身長を伸ばし、それが後世へと引き継がれていきます。日本人の平均身長は近年伸び悩んでいます。壁を超えるためには、できるだけ多くの日本人が、そうして情報に対する鋭い感覚を持つ事が重要です。




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